草なぎ剛のNHK「赤報隊事件」 未解決事件を実録ドラマにする意義はここにある

草なぎ剛のNHK「赤報隊事件」 未解決事件を実録ドラマにする意義はここにある

今から31年前の事件。記憶の中で風化しつつある遠い昔の出来事。それがお茶の間に生々しく甦り、ぐっとリアルに迫ってきました。気付けば、あっという間に番組に吸い込まれていった視聴者も多かったのではないでしょうか?

 そのドラマとは…

1月27日午後7時半から放送されたNHKスペシャル「未解決事件」シリーズ「File.6 赤報隊事件」。1987年、新聞記者2人が銃で殺傷された朝日新聞阪神支局襲撃に始まる一連の事件。新聞社だけでなく総理大臣、大物政治家にも脅迫状が届けられ、警察は124万人を動員し捜査に挑んだが、犯人逮捕には至らず時効──という事件をドラマ仕立てにした72分。

 シリーズ「File.6 赤報隊事件」は、実はドラマとドキュメンタリーの2本構成で、実録ドラマが放送された翌日にドキュメンタリーが放送されるという仕立て。

だからこそよけいに、「ドラマ部分がどんな役割を果たすのか」「ドラマでしか伝えられないことって何なのだろう」と、ドラマウオッチャーとしては注目したのです。

 犯人は闇に消えていまだ捕まっていない。出来事の背景は非常に政治的で複雑怪奇、しかも遺族や同僚は生きている。いったい、ドラマはこの難解な事件をどこまで描くことができるのだろうか?

 そして実録ドラマが始まり……画面に映し出されたのは鬼気迫る表情。犯人を追う特命取材班・樋田毅記者(草なぎ剛)が漂わす緊張感、これが半端なかった。瞬き一つしない目が、静かに物語る。悔しさ、怒り、申し訳なさ、哀しさ、歯がゆさ、不気味さ。感情をおさえた横顔。それがフラットで静かであればあるほど、伝わってくるものは大きい。

 大物右翼(村田雄浩)と対面し、樋田記者が問いかけるシーンは特に緊張が張り詰めていました。

「考えの異なる者を銃で撃ち殺し、それが正義だと主張したのが赤報隊です。小尻記者に向けられた銃弾は自由な社会を求める私達一人一人に向けられたものだ」

 樋田が語る言葉一つ一つに、魂のようなものが宿っていた。絞り出される一言一言が借り物でなく上滑りせず有無を言わせない説得力に満ちていた。

画面を見つめていると、自分から遠い事件だったはずなのに、まるで「自分のこと」「自分と関係ある生々しい出来事」のように迫ってくる。そこでもう一度、ドラマの役割とはいったい何なのだろう、と考えました。もし、新聞やニュースなどでしか事件を知り得なかったら?

 頭で事件のことを「知識」として「理解」したとしても、被害者の家族や同僚たちの葛藤、動揺や哀しみ、悔しさ、見えない犯人を相手にする不気味さ、時代の闇の怖さといったことに、これほど衝動を受けただろうか? 報道とはまた違った質の、不思議なリアリティを届けること。それこそが「ドラマの役割」なのでしょう。

 主役を演じた草なぎさんも、最初からこの事件を深く理解していたのではない、と語っています。

「事件が起きたとき、僕は中学生でした。事件について詳しく知らなかったのですが、知れば知るほど、自由にモノが言える自由な社会とは何か、考えるようになりました」

その意味で、多くの一般視聴者と重なる。ゼロからスタートし時代や出来事について理解し、感情を想像し役者が自分の中で醸成したものが結果として演技に結晶し、伝える力となり共感を生み出していく。

 今回のドラマは何よりも草なぎ剛、上地雄輔……役者たちの飛び抜けた集中力が支えていて、さらに優れた演出と脚本、3つが揃ったところに産み出されました。

「ドラマを通して少しでも皆さんに考えてもらうきっかけが作れたら」(草なぎさん)という言葉通り、この事件と現在の状況との不気味な相似性、関係性について前よりも格段に思いを馳せ考え、複雑な気持ちになった視聴者は多かったはずです。

そしてドラマの特徴をもう一つ挙げるとすれば、「お茶の間と地続き」であること。映画なら見たい作品をあらかじめ選択して時間を作りお金を払い、暗闇の中でじっと集中して鑑賞します。それに対して、ドラマはもっともっと日常とつながっていて気が散れば別のことを始めてしまうし、すぐチャンネルを変えることもできてしまう。

 作品との出会い方についても、良いも悪いも「いい加減」な部分を含んでいます。たとえば赤報隊事件のことはよく知らないけれど草なぎさんのファンだったり、何となく時間ができてチャンネルをあわせたら偶然ドラマに遭遇、といったケースも多々あるはず。

 だからこそ、社会に深く影響を落とし続けている未解決事件を「実録ドラマ」として投げかける意義は深い。作り手の想定を大きく超えて波紋が広がっていく──それがドラマの底力であり、ドラマでしかできないこと、と言えるのかもしれません。

(初出 「NEWSポストセブン}2018.2/3 )

www.huffingtonpost.jp/yumi-yamashita/sekihotai-significance-of-dramaization_a_23351917/

북한이 건군절 열병식 개최를 공식화했다

북한이 건군절 열병식 개최를 공식화했다

북한이 ‘건군절 열병식’ 개최를 공식화했다.

연합뉴스의 3일 보도에 따르면, 북한 노동당 기관지 노동신문은 이날 이러한 내용을 뼈대로 한 논평을 발표했다. 

노동신문은 ‘동족의 대사에 대해 횡설수설하는 주제넘고 파렴치한 수작질을 당장 걷어치워야 한다’는 제목의 논평에서 ″(건군절 기념행사는)조선인민군의 창건일을 의의깊게 경축하려는 우리 군대와 인민의 한결같은 의사를 반영한 것이다”라며 ″세계의 그 어느 나라나 자기 군대의 창건일을 중요시하며 성대한 행사들로 기념하고 있는 것은 하나의 관례이며 초보적인 상식”이라며 열병식 개최를 강행할 뜻을 밝혔다. 

또 논평에서 ″우리가 조선로동당 창건기념일인 10월 10일에 국가적인 중요행사들을 진행하니 남조선에서 해마다 그 직전에 벌려놓는 10월 1일 ‘국군의 날’ 행사놀음을 하지 말라고 하면 그만두겠는가”라고 반문하기도 했다.

노동신문은 북한이 일부러 평창올림픽 개막식 전날로 건군절을 옮겼다는 비판에 대해 반박하면서 ″우리가 70년 전 2월8일에 평창겨울철올림픽경기대회날자를 념두에 두고 정규군을 창건하였다고 하는 것이나 다름없는 얼토당토않은 궤변”이라고 말했다. 

이와 함께 “2월8일에 건군절 기념행사를 하는 것이 그렇게도 기겁할 일이면 애당초 겨울철 올림픽경기대회 개최날짜를 달리 정할것이지 이제 와서 횡설수설할것이 뭐가 있단 말인가”라며 ″생억지, 생트집”이라고 비판했다.

www.huffingtonpost.kr/entry/story_kr_5a767b5ae4b01ce33eb35fab

前夫と死別→ベルギーで国際結婚。夫婦別姓が「生きやすい」理由

前夫と死別→ベルギーで国際結婚。夫婦別姓が「生きやすい」理由

ライターの栗田路子さんは、日本人の夫と死別し、ベルギー人と国際再婚した。その中で直面したのが「姓」を変えることの大変さと、不条理さだ。

いったい何が起きたのか。

ハフポスト日本版「家族のかたち」特集では、栗田さんにこれまでの体験をレポートしてもらった。

………

新年早々、選択的夫婦別姓を求める新たな訴訟が起こされたと知って小躍りした。今回、原告となっているのは、ソフトウエア開発会社「サイボウズ」の青野慶久社長らだ。

記者会見する青野慶久社長

2015年の夫婦別姓訴訟では、夫婦同姓を強制する民法750条が憲法違反かどうかが争点だった。違憲と判断したのは3人の女性判事全員を含む合計5人。合憲と判断した10人は全員男性判事だった。「通称を使えるから」として、実際に不利益を被っている当事者の訴えを、想像し共感することのできない司法の壁に私は落胆した。

今回は、男性の当事者が立ち上がり、「国際結婚」に着目した点が新鮮だ。同日、最高裁判事に加わった弁護士の宮崎裕子氏は、「旧姓を使用し続ける」と発表。追い風になりそうな気配だ。

筆者は最初に結婚したとき、世間の慣例に従って夫の姓を選んだ。だが、わずか数年で夫と死別し、姓を変えたことの不都合を身をもって体験した。

その後、ベルギー人と再婚し、夫婦別姓の心地よさを味わっている。夫婦同姓と夫婦別姓、その両方を実体験した当事者として、声をあげてみたいと思う。

結婚したと思ったら、突然夫に先立たれて

「栗田さん」と呼ばれて「ハイ!」と答え続けた自分の姓は、そう簡単にかき消すことのできない自身のアイデンティティの一部となっている――そう実感したのは、20代の最初の結婚で、夫の姓を名乗った時だった。

病院や銀行で、夫の姓を呼ばれても実感がなく、とっさに反応することもできない。それは、突然とってつけた「借り物」でしかないと感じた。歓びよりも、不本意さの方が大きかった。

結婚後も、職場では、旧姓を通称使用していたが、結婚してしばらくたつと、銀行口座の名義を変え、それに従ってクレジットカードの名義を変えざるをえなくなり、健康保険証もと五月雨式に変えることになり、自分の証明であるはずのものが、整合性のつかないものになっていった。

そんな矢先に、夫が急逝した。

結婚3年足らずで未亡人となると、途端に、ありとあらゆる不条理に直面した。

(写真はイメージ)

旧姓に戻せば、墓に入れないと告げられて

運転免許証は、夫が亡くなってすぐに書き換えで結婚姓となり、パスポートやパスポート上のサインは旧姓のまま、まだ期限が何年も残っていた。

生命保険の名義や受取人は書き換えたばかりで、保険会社からは、丁重ながら、保険金目当ての犯罪ではないかと勘繰られる始末だった。

ありとあらゆるものが、旧姓のままだったり、結婚姓に変更したばかりだったりして収拾がつかなくなり、その手続きにかかる労力とタイムラグがあまりにも多くの不都合を生んだ。

悲嘆のどん底にある時に、夫の会社の総務担当者からは、旧姓に戻せば遺族年金の受給資格を喪失すると教えられた(※実際は受給できる)。

大枚をはたいて購入した墓は、夫の姓を「XX家」と彫った墓石を建てたので、旧姓に戻せば、たとえ自分が生涯、墓を守り、管理費を払い続けていても、その墓に入ることはできないと墓地の運営会社から告げられた。

三周忌を済ませた頃、一念発起して留学しようと考えた筆者には、大学の卒業証明書や成績表の名前、出願願書の名前、TOEFLなどの共通試験の名前、パスポート、銀行名義などが異なることが新たな課題となった。

前夫との結婚以来、5~6年の短期間のうちに、夫の姓を名乗ったり、旧姓を通称使用したり、姓の変更手続きをしたり。国内の手続きだけでも煩雑で辟易したが、国際社会に出れば、その何倍も不都合になることを予感した。

結婚しても、死別しても、離婚しても、自分の固有の姓に影響しなければ、こうした煩わしさは回避することができるのにと感じた。

国際再婚することになって

その後、筆者は、再婚することになったのだが、その相手は、欧州の小国ベルギー国籍の人だった。ベルギーでは、婚姻は個人の姓名や国籍などと無関係だ。

サイボウズの青野さんらが指摘しているように、日本の戸籍法でも、外国人と結婚する場合には、別姓・同姓のどちらでも選択できる。

というのは、外国人は、日本に戸籍がないので、戸籍筆頭者にはなれないからだ。国際結婚の場合、戸籍筆頭者の欄には、自分の姓名か、配偶者の姓をカタカナ書きして自分の名を連ねることになる。結果として、旧姓も配偶者の姓もどちらも選べることになる。

昨今では、国際結婚する日本人の中にも、外国姓のカタカナ書きを正式な自分の苗字とする人も少なくないが、筆者としては、日本人として外国姓を無理やりカタカナ表記した不自然な名前は遠慮し、自分の姓名とした。

カタカナ書きの姓にすれば、どうでもよい人にまで、自分の配偶者が外国人であることを知られるわけで、プライバシーの侵害とも感じる。

名前を聞かれる局面で、カタカナ姓といえば、だいたい「は?」と聞き返されて、その上、「どちらの国の方ですか?」などと余計な質問を招いたりする。

夫婦別姓のベルギーでは、表札に2つの名前が併記されている。

ものすごく煩雑な、国際結婚の手続き

国際結婚することになると、たいていどこの国でも、国籍証明、出生証明、独身証明などの正式文書が必要となるはずだ。

これらは、戸籍の写しを基に、在外公館で作成してもらったり、それを日本国外務省に送ってアポスティーユという証明を取りつけたりしなければならない。その手続きはものすごく煩雑だ。

どの証明書の裏にも、元となった同じ「戸籍謄本・抄本」が付けられて割り印が押されるのだが、「戸籍」という制度のないベルギーの行政の担当者は、これにもかなりの疑問の目を投げかけた。

「いくら私に日本語が読めなくても、どれもすべて同じ紙が添付されていることくらいわかりますよ、同じ紙から、異なる証明書が作成できるわけはありませんよね。私はだまされません!」と。

再婚するときに「復氏届」出したら…

さて、話を姓に戻そう。ベルギーは建国以来、夫婦別姓だ。その社会で再婚することになったので、出生時の姓と、再婚する際の姓が違う理由の説明に苦労した。

まず、裁判所が認定した翻訳家に、日本の法律を訳してもらった。さらに、最初の結婚で「(夫ではなく)わたしが姓を変えた理由」も、説明させられた。

「再婚前に旧姓に戻そうとした」ことでも、ややこしさは加速した。

再婚する前、「旧姓に戻してから再婚してほしい」と母から言われ、希望をかなえようと、在外公館から「復氏届」という書類を提出した。

手続きは無事に済んだが、新しくできた戸籍謄本を見て、私は茫然とした。

私の戸籍には、こんな風に書かれていたからだ。

昭和x年x月x日xx市で出生同月x日父届出x月x日同市長から送付入籍

平成x年x月x日国籍ベルギー王国A(※現夫)と同国の方式により婚姻同月x日証書提出同年x月x日在ベルギー大使から送付x県x市x番地B(※前夫)戸籍から入籍

平成x年x月x日婚姻前の氏に復する届出同年x月x日在ベルギー大使から送付x市x番地C(旧姓の自分)戸籍から入籍

戸籍制度をきちんとわかっている人向けの、独特な表現となっている。「結婚した」ことや「死別した」ことは、戸籍謄本にはシンプルに書かれていないので、翻訳して海外の政府に提出しても、意味がなかなか通じない。

現在は戸籍がデジタル化されて多少見やすくなったが、「海外でわかってもらえなさそう」なところは変わらない。戸籍が必要になるたび、今もびくびくしている。

少数派に共感できる社会は生き心地がいい

筆者が体験した様々な不便を挙げると、日本人の多くは「そんな目に遭う人は貴女くらいなものね」と哀れみの目で見てはくれても、「別姓が可能なら助かる人がたくさんいるのにね」と共感してくれる人はあまり多いとはいえなかった。

友人にも、学者や弁護士など、姓が過去の業績とリンクする度合いの高い職業についている人は多い。こういう人たちの不都合はすでにたくさん語られてきたが「自分はそんな仕事に就いてない」と、その無念さや不都合を想像できない人も大勢いる。

筆者にとっては、最も不快なのは、「姓が変わる」ということで、知らせる必要のない不特定多数の人々にまで、婚姻に関わるプライバシーが公開されてしまうことかもしれない。

同窓会名簿に旧姓を添えて異なる姓を書けば、「お相手はどんな人?」と聞かれ、旧姓に戻した名刺を差し出せば、「離婚?」と勘繰られることになる。

今は、夫婦別姓の国際結婚なので、生まれて以来長く使い慣れてきた唯一無二の自分の姓を名乗り続けていることが心地よい。

ブリュッセルの街

別姓だと家族の絆が崩壊するの?

夫婦別姓に反対する人々には、家族の絆が崩れ、子供たちがかわいそうだという人もいる。だとすれば、日本以外の夫婦別姓を認めるすべての国で、家族が崩壊し、子供たちがかわいそうな目にあっているというのだろうか。

ベルギーでは、夫婦は別姓で、子供たちは、どちらの姓でも、結合姓でもかまわないことになっている。最終的に自分の姓を選ぶのは、子供たち自身。自分の人生に対し責任をもって生き始める成人のタイミングで選ぶことになっている。

表札上に書かれた名前が一つであることが家族の絆の証だろうか。

姓もばらばらで、再婚の連れ子や、養子・里子、同性夫婦などがたくさんいるこの国の多様な家族のありかたを見ていると、姓が同じであるか、血がつながっているかなどは、家族の絆や子どもの幸せの本質ではありえないと確信する。

家族の絆とは、もっと内発的な、互いを思いやる家族愛や連帯意識ではないかと。実際に、私は国際養子縁組で2人の子供を迎え、かけがえのない家族を築いてきた

ベトナムで娘を迎えたときの現地での養子縁組式

日本で今、議論されているのは、結婚により同姓も別姓も選択できるようにしようというものだ。同姓を希望する人たちはそのまま同姓を選択すればいいのだ。

たとえ、同姓を求める人が多数派であっても、別姓でハッピーになる人々に思いを馳せて、それぞれに生き心地の良い社会を作ることができたら――選択的夫婦別姓を求める声は、弱いものや少数派を包摂する優しい社会を希求しているように感じる。

(文:栗田路子 編集:笹川かおり)

家族のかたち」という言葉を聞いて、あなたの頭にを浮かぶのはどんな景色ですか?

お父さんとお母さん? きょうだい? シングルぺアレント? 同性のパートナー? それとも、ペット?

人生の数だけ家族のかたちがあります。ハフポスト日本版ライフスタイルの「家族のかたち」は、そんな現代のさまざまな家族について語る場所です。

あなたの「家族のかたち」を、ストーリーや写真で伝えてください。 #家族のかたち#家族のこと教えて も用意しました。[email protected] もお待ちしています。こちらから投稿を募集しています。

Add Comment Collapse


www.huffingtonpost.jp/2018/02/01/dual-name-story_a_23350802/